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『時間』について

 1月21日に下北沢・ダーウィンルームで開催する「立川吉笑のはなしの食堂」というトークイベントのテーマが「時間」に決まった。その理由は僕が「時間」に関心があるからで、ここでは、僕が時間について考えてきたことを脈略なく書いてみる。
 
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 以前から自分にとっての主題の1つに「時間」というものがある。なぜ時間に興味を抱くようになったのかはほとんど覚えていないけど、気づけば「主観的時間」と「客観的時間」の違いみたいなことにすごく関心を持つようになっていた。「楽しい時間はあっという間に過ぎるけど、退屈な時間は長く感じる」みたいなアレだ。
 
 時間のことを考え始めた時に思いついたのが「ぞおん」というネタだ。ゾーン状態に入ると周囲がゆっくりに見える番頭。そんな番頭と新入り奉公人の定吉との「時間感覚の差」みたいなものをネタにしようと思って作り始めたのが「ぞおん」だった。
 
 その頃、how to count one to tenというポストロックバンドに声をかけてもらって、彼らのアルバムに落語家として参加することになった。ドラムとベースと3本のギターという少し変わった編成の彼らと話していくうちに、興味深い話を聞かせてもらった。
 1本1本は単純で記号的なフレーズをループするギター。それを3本絡めることで複雑なアンサンブルを生み出すスタイルの彼らは、調子がいいと3人の呼吸がグッと合ってきて、そうなると16分音符よりもっと先の、32分音符、さらには64分音符、128分音符と、小節を区切る目盛りの解像度がいつも以上に上がる感覚があるとのこと。それは1小節が普通よりも長く感じることとも言い換えられる。
 そんな彼らと作った「mathematics;re」は鮫講釈を下敷きに、死と直面した講釈師が走馬灯を見ながら最後の講釈に挑む場面をクライマックスに仕立てた。いま聞き返すと「時間が圧縮されていく」とか「言葉が時を追い越していく」とか、時間について考えていた断片がいたるところに散りばめられている。
 
 
 その前後で今度は「歩馬灯」というネタを作った。これは「死ぬ瞬間に見る走馬灯が、リアルタイム進行だったらどうなるか?」という切り口のネタだ。
 交通事故にあった方が、その瞬間に「景色がゆっくりに見えた」とか「これまでのことを思い出した」とかそういう証言をすることが多々あると聞いたことがある。それこそゾーン状態なのか、極限に追い詰められることでいつも以上に脳が稼働することは意外でもなんでもない。そう考えたら走馬灯は普通にありえる気もする。その走馬灯で、もう一回同じ速さで人生を繰り返すことになったら、どう感じるのか?走馬灯として振り返っている人生の最後は同じく事故にあう訳で、そこでさらに走馬灯の中で走馬灯が立ち上がったらどうなるのか。時間だけでなく、メタ構造反復にも強く心を惹かれる自分にとっては関心のあるものがふんだんに詰まったネタとなった。
 
 
 「時間」を主題に作ったネタは他に「八五郎方向転換」というものがある(僕にとっては「ぞおん」と「歩馬灯」と「八五郎方向転換」は時間三部作と考えている)。
 このネタは花見に出かけている八五郎がスリにあう場面から始まる。「財布をスられた!」と気づいてから、逃げていく犯人を追いかけるために犯人の方へ身体の向きを変える「5秒間」の出来事を「15分の落語に伸ばす」という趣向だ。
 移動中にぼんやりすることが多い僕は、大事な着物を何度か電車に置き忘れてしまった。たいては目的の駅で降りて、改札に向かっている最中にカバンがないことに気づく。その瞬間、「カバンをどこに置いたっけ?」「網棚?」「そもそも家から持ってきてたっけ?」「何両目に乗ってたっけ?」「ひとまず駅員に報告しよう」「替えの着物を取りに行く時間はあるかな?」「スタッフさんに連絡しなくちゃ」「またやってしまったなぁ」などと色々な想いがすごい速さで巡っていく。これもゾーン状態みたいなことなのかなと思っていて、そんな状態をネタにしてみようと思ったのだ。
 
 
 そんな「八五郎方向転換」の構成を考えている時、独立研究者の森田真生さんが僕の作業場に遊びに来てくださった。ちょうどホワイトボードにアイデアノートが残っていたから、ここぞとばかりにネタの構想を喋った。
 僕の予定では「すごいですねぇ!」と関心してもらってから、「時間」にまつわる話を色々交すつもりだったけど、「八五郎方向転換」の概要を聞いた森田さんから返ってきた言葉は、斜め上のものだった。曰く、「吉笑さんはまだ時間があると思えているんですね」
 
 「???」時間があると思えているってどういうこと?時間がないってこと?なにそれ?仙人みたいだなと思っていた森田さんが本当に仙人じゃないかと思えた出来事だった。
 
 
 それから随分と時間が経ったある日のこと。色々な本を読んでいくうちに、僕の関心は哲学や仏教・東洋思想へと移り変わってきた。というか面白いなぁと感じた人たちの背景にことごとく仏教の存在があることに気づいて、必然的に僕もそういうことに興味が出てきた。
 しつこいくらいの論理的思考で記号的なネタをたくさん作ってきた僕だけど、そういう論理・ロゴスを下敷きにしていない世界というのがあるらしいとぼんやりわかってきた。言葉以前の世界。ロゴスでなくピュシス。そういう境地について思いを馳せることができるらしいと微かに実感できるようになってきた。
 最近手にとったのは中沢新一さんの「レンマ学」という本。その中に因果律でなく縁起的に物事を捉えることについて書かれている箇所があった。この「縁起」という概念も、僕が関心を持った人やモノ、コト、あらゆるところに登場してくる。ニュアンスはわかるけど、論理の権化たる僕にはなかなか実感を持つことができない考え方。原因があって結果があるのではなく、それぞれが相互に繋がりながらただ在るということらしい。そして、そんな因果律から解き放たれた世界では「時間」はないと書かれていた。何かがあって、それによって別の何かが起こって、それによってまた別の何かが起こって、と因果関係が成立するとそこに時間が生じる。以前・以後と分けることで時間の流れが立ち上がる。そうじゃなくて、それぞれが独立してただ在ると考えたなら、なるほど、そこに時間は流れない。
 数年前の森田さんの「吉笑さんはまだ時間があると思えているんですね」という言葉がようやくぼんやりと分かってきた。
 
 
 またそれとは全然別の流れとして、『時間は存在しない』という本が面白いという話を聞いて早速買ってみた。ここでも森田さんの「吉笑さんはまだ時間があると思えているんですね」という言葉が想起させられる。この本を読んでびっくりしたのは、冒頭も冒頭で、「時間は場所によって変わる」とか「時間は伸び縮みする」とかこれまでの僕の認識をはるかに凌駕したことが書かれていたこと。そしてそういう時間についてのパラダイムシフトが最先端の研究結果ではなくて、存在は知っていたアインシュタインの相対性理論によって引き起こされたらしい。大学でちゃんと勉強した人にとっては常識なのかもしれないけど、物理をしっかり勉強してこなかった僕にとっては驚きの内容だ。
 『時間は存在しない』はこの後、さらに時間についての認識を変容させてくれる本に違いないけど、まだそこまで読めていない。そしてざっと相対性理論について勉強してみたところ、どうやら「光の速さが普遍」とことに最初のポイントがあるようで、確かに光の速さが普遍だとしたら時間が伸び縮みしないと腑に落ちないことが起こるというところまでは理解できた。
 そうなってくると今度は「なぜ光の速度が普遍か」ということについても調べたくなってくるけど、まだそこまでできていない。「時間が存在しない」ということについて徹底的に調べるための時間がない。
 
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 ざっくり書くと僕が「時間」について考えてきたこと、知っていることはこんな感じ。今度のはなしの食堂を通して、また少し「時間」についての見え方が変わるようになったらいいなぁと思っています。一緒に考えたり、議論できる知的好奇心旺盛な方のご来場をお待ちしております。(イベントの様子を後日WEBで閲覧できるチケットもあるようです)
 
ご予約・詳細はこちら
https://hanashinoshokudo02.peatix.com