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音楽としての落語01

01 何を言うか。どう言うか。

 

 落語で何を言うか。そんなことだけを考えてやってきた。

 

 落語だから言えることって何だろう。言いやすいことって何だろう?自分にしか言えないことってあるのだろうか?次は何を言おうか。そんなことばかり考えてきたし、これからも考えて行くのだろう。それがしたくて、落語家になった。

 

 一方で。何を言うか、じゃなくて、どう言うか。どうやらそのことだけを考え続けている方もいるらしい。同じ内容でも、言い方一つでガラリと印象が変わる。どんなに素晴らしいことを言っても、それが伝わらなければ意味がないし、どんなにつまらないことを言っても、それが見事に伝われば、それだけで他人の心を動かすこともできるだろう。

 

 これまでの自分の戦い方で言えば、とにかく何を言うかで勝負してきた。自分にしか言えないこと、自分らしいこと、それを探し、作り、考え、出すことで、数多いる落語家の、それもほとんどが自分よりもキャリアが上の先輩方と同じ高座に上がっても爪痕を残せるように振る舞ってきた。

 

 その結果、現状はどうだろう?

 少しは恵まれた状況にいられている気もするし、まだまだ不安定で満たされていない気もする。いずれにせよ、このままではダメだと言うのはたぶん間違いない。このまま続ければそれに伴って経験値は上がるし、少しは伸びることもあるだろうけど、その程度の伸びではこの先相対的に埋もれていくのは目に見えている。

 だったらどうするか。

 長所を磨く、これは戦いの鉄則。当然だ。自分だから言えること、自分にしか言えないことを探し続ける。これが自分の生命線だ。

 その上で、何を言うか、じゃなくて、どう言うか、について少しは自発的に考えてみようと思ってもいる。

 

 落語の基本、リズムとメロディー。間、ブレスの位置。どこでどう喋らないか。息を吸うか、吸わせるか。

 

 漫才だと1分間に3つ4つのボケが無いと退屈に思えるのに、どうして落語は5分間笑いがなくても心地よく思えるのだろう。同じ台詞を言ってるのに、どうして自分はウケなくて、あの人はウケるのだろう。

 

 音楽としての落語について、上手い人や自覚的な人がたくさんいるなかで、現時点では程遠い位置にいる自分が考えることは滑稽だろう。それでも、だからこそ見えてくるものがある気がしている。

 何より、何を言うかについて特化してきた自分が、どう言うかについても考え始めたら、その先にはどんな落語をやる自分が待っているのか。自分の落語がどう変わるのか?

 

 楽しみしかない作業ができるなんて、幸せでしかないと思っている。