News

倉本美津留さん

 6月24日に開催する『吉笑ゼミ。』現時点で、すでにたくさんのご予約を頂いてほくほくしています。いつもの僕の会だったら十分すぎるくらいのお客様に集まって頂けそうなのですが、今回の会場はいつも演ってるところの倍くらいの広さがあるので、もっともっとたくさんのお客様に集まって頂けるよう、あれこれ考えているところです。とりあえずチラシが仕上がってきたので、色々な場所で配り始めようと思います。落語界のお客様はもちろんのこと、落語を聴いた事が無い、というお客様にもたくさん集まってもらえたら一番嬉しいなぁと思いつつ。

zemi01  zemi02

詳細やご予約方法はこちらをご覧ください。
http://bit.ly/1k0WXxQ

///

 さて、そんな今日は第一回目のゲストである倉本美津留さんについて書こうと思います。
 倉本さんについて、ご存知の方は当然ご存知でしょうし、そうで無い方は当然そうでないと思います。当たり前ですが。僕はと言えばかなり頭でっかちのお笑い好きだったので当然昔から知っていました。ダウンタウンさんのことを好きになったお笑い頭でっかちの人間は必ず倉本さんの事も知っているはずです。印象的なのは一人ごっつの大仏役としての倉本さんでしょうか。あとはダウンタウンDXの『視聴者は見た!』というコーナーのトスポというポスト型キャラクターの声でもおなじみでしょう。あとは映像コント作品では僕が今でも一番好きなビジュアルバムのDVD特典なんかでもおなじみです。
 個人的に倉本さんの仕事で特に好きなのは、三宅裕司さんと生瀬勝久さんとの番組、ワークパラダイスです。これはバラエティ番組とは言え、ちょっと表向きはそういう感じがしないから頭でっかちなお笑い好きでも、知らない人が結構いるかと思います。モーニングビッグ対談のような、コントよりのフェイクドキュメンタリーみたいなシステムで、これの『ヨット棒』とか、僕はとても好きです。
 それから関西ローカルだと思いますが、『どエンゼル』という番組。笑い飯さんがメインで、コント的なスケッチと、その間にちょっとしたアートワークが挟まるモンティパイソンの作品のような構造の番組だったと思いますが、これの板尾さんがゲスト出演された『目についたものをイチイチ言葉にしていく』コントがたまらなく好きでした。

 そんなマニアックなお笑いの話はおいておいて、僕のイベントのしかも第一回目のゲストに倉本さんが出てくださるというのは、僕にとってはとても象徴的なことなのです。

 独立研究者の森田真生さんと去年知り合って、しかも仲良くさせて頂くようになってことが『吉笑ゼミ。』をやろうと思いついた一番のきっかけで、森田さんは当然として、森田さんに紹介してもらった同年代の研究者や研究者志望の方にゲスト講師として講義してもらえたら、そして、その内容を僕の切り口で落語にできれば楽しいだろうなぁと思ったのが最初で、実際、2回目のゲストは同年代でゴリゴリの研究者志望?の方に講義をお願いしていたりしています。
 その方向性から考えると倉本さんは少しズレているとはもちろん自分も分かっているのですが、それでもこの会の1回目には倉本さんに出演して頂きたかったのです。

 いまの僕の師匠は立川談笑で、これは一生揺らぐことはないと思うのですが、他にも何人か、今の僕の価値観を形成する上で決定的な影響を与えてくださった方がるのですが、そのうちの一人が倉本美津留さんでした。というか、倉本さんがいなければ立川吉笑は存在していません、物理的に。

 これまでも聞かれたら言ってきたし、ブログにも書いたと思うし、明日締切のメルマ旬報での連載『現在落語論』にも書くつもりでいるのですが、僕が落語を能動的に初めて聞いたのは24歳くらいの頃。志の輔師匠のCDでした。それまで落語に別段興味はなかったのですが、いつもの様にお笑いのDVDを買いにきていた渋谷HMVで、その日なぜか志の輔師匠のCDも買ったのでした。その日買ったCDが決定的な決め手になったのでは無く、実際はそれがきっかけで志の輔師匠のCDをひたすら聞いていくうちに出会った『だくだく』という落語で、僕は落語家になりたいと強く思うようになったのですが、京都出身の僕が東京に来るきっかけを与えてくださったのが他ならぬ倉本さんだったから、物理的に、倉本さんがいないと僕は、立川吉笑は存在していないと言えるのです。

 大学を中退して、お笑いに携わる仕事がしたいなぁと漠然と思っていた20歳くらいの頃に倉本さんと知り合いました。というか、倉本さんが審査員を務められていたある映像コンテストに作品を応募したのがきっかけです。その時、倉本さんにとても評価して頂けて、それだけで本当に嬉しく思っていたのですが、その後、しばらくして、これもまたあるきっかけで自分たちの作品を見て頂いたようで、ある日、倉本さんから電話がかかってきました。
 指定された、大阪のホテルのロビーのような場所にいったら倉本さんがいらして、当時ゴリゴリのダウンタウン信者だった僕は『わー、倉本美津留だー!』と思ったのを覚えています。とにかく笑いの話しかしなかったのですが印象的だったのは、『お前ら、いま、何番やと思う?』という質問です。「お笑い界で、自分たちは今何番目に面白いと思っている?」という意味の質問で、なぜそんなことをされるのかは分からないけど、とにかく試されている質問だというのはすぐに分かりました。ざっと想像しても、ダウンタウンさん、千原兄弟さん、ラーメンズさん、バカリズムさん、シティーボーイズさん、バナナマンさん、おぎやはぎさん、、、、とたくさんそれこそ好きな芸人さんの名前が浮かんでくるし、正直これまでその数なんかを数えたこともなかったから、何番だろう?と本当に困りました。一方で、『自分たちが一番面白いです!』みたいな答えもこういう場面の模範解答である気がしたから一瞬よぎったけど、どう考えてもそんな訳ないし、たぶんそんなこと言ったら何しろ松本さんとずっと笑いと格闘されてこられた方だから『笑いを舐めるな!』と一喝されるなと思い、結果、何となく自信ある感を出しつつ謙虚な気持ちもありつつ、みたいなところで確か『50番くらい、や、100番くらい?』みたいな答えをした記憶があります。それにしても、プロの方々に失礼極まりない傲慢な解答ではあるのですが、一方で若くて青くて尖っていたから仕方がなかったりもします。

 その一世一代の僕の答えに対する倉本さんの返事は『もっと自分たちに自信を持ってええんちゃうか?』というものでした。そのまま、もうしばらく雑談をして、『ほな仕事あるから』と倉本さんは帰っていかれました。何か重大なチャンスを逃した気がしたのですが、まぁ仕方ないかと思い、大阪から京都に帰りました。
 その車中、また倉本さんから連絡があり、『よーわからんけど、本気で面白いもん作りたいんやったら東京におった方がええ思うで。色んな刺激もあるやろし』と言われました。
 特に京都にいる意味もなかったし、何より若かった僕は、すぐにバイトを辞める段取りを組んで、部屋を借りて、数ヶ月後、東京にいきました。

 そこからの数年のことはまた改めて書くとして、本当に色々な経験をさせてもらいました。もし僕が今、これまでに無かった動き方ができているとすれば、それはこの時期に経験したものだけが要因だと思います。

 倉本さんは師匠とか先生みたいに敬う感じで僕たちが接することをとても嫌がられ、年こそ離れているけど、とにかく仲間みたいな感じで接してくださいました。東京いってすぐのころお宅へ招いてくださり、倉本さん含めた何人かで面雀をしたときは本当に緊張しました。何しろ、実際に撮影で使われていた、あの面牌を使っての面雀だったのだから、それこそ学生時代から手作りの道具でやっていた自分からしたら夢のような環境でした。
 コントや映像作品など、自分たちが作ったネタも見た上で色々とアドバイスしてもらったり、時には一緒に作品を作ったりもさせて頂きました。

 環境としては本当にありえないくらい恵まれていたのですが、それでも何か行き詰まった閉塞感を感じていた頃に、志の輔師匠のCDと出会い、そこから一気に落語会へ通い詰めるようになり、落語家になるんだと強く思う様になりました。

 結果、どうしても落語をやりたくなった僕は、半ば不義理をする形で以前の仕事を辞め、色々な会に通い、タイミングを計るなか、1年後、談笑へ弟子入り志願させて頂きました。

 国立演芸場で開催した昇進記念独演会に倉本さんをご招待し、初めて落語を聴いて頂きました。それからまた連絡を取らせて頂くようになり、今回、今まで以上に外に開けたイベントを始めるにあたって、いよいよ倉本さんの前で落語演る時がきたかな、と思いました。「自分が面白いと思うものをやりたい」とずっと思っていた僕だから、以前の自分と立川吉笑とを比べられるのが怖かったのですが、もう大丈夫な気がしたからゴーサインをだしました。

 僕が二番煎じが嫌いでとにかく”新しいモノ”好きなのは何となく伝わっているかと思いますが、これは倉本さんの影響が大きいです。倉本さんには常々「誰も見たことの無いもの、お前にしか作れないものを作れ!」と言われてきました。
 そんな倉本さんだからこそ、新しい形式のイベントの1回目のゲストに出てもらいたかったのです。

 打ち合わせがてら久しぶりにお会いした倉本さんは別れ際『あ〜おもろいことしたいなぁ。あ〜革命起こしたいなぁ〜』とおっしゃっていました。どこまで本気でどこまでボケなのかは分かりませんが、その空気感が以前と全く同じだったので何だか嬉しくなりました。